何事も10年

つい先日、このブログを初めて10年が経過していたことに気がつきました。

 

初期の投稿を見返すとなんと拙い表現かと反省する反面、

 

それを拙いと感じるということは自分自身が少し成長できたのかなとも思えます。

 

10年間続けるということは、きっとどこかに「楽しみ」がないと続かないと思います。

 

何かの強制力では頑張って3年、5年続いたとしても、10年は続かないのです。

 

ちなみに自分自身は学生時代に陸上というスポーツも約10年間競技として続けることができましたし、今も国内外を通して10年間建築設計の仕事を続けれています。

 

今もたまに気が向けばランニングをするので、「走ること」に関しては未だ継続中と言えばそうかもしれません。

 

 

続け方は様々で、このブログだって初期に比べたら更新頻度は極端に下がっているし、

そんなの続けたうちに入らないと言われればそれまで。

ただ、自分の中には何か10年間続いたという確かな事実が残るのです。

 

そして、10年間何かを続けることで、見えてくる世界が存在することも知ることができます。これは続けられる人にしかわからないことです。

 

何かを勉強する、学習するとはそういうことなのかな?と最近思います。

 

とりあえず、このブログをはじめた時に、10年間は続けてみようという目標を掲げてやってきましたが、10年が経過した今、今後どうしようかと思っています。

 

とりあえず、形は変わっていくかもしれませんが、そこには自分なりの「楽しみ」があるので、もういいやと思うまでやってみようと思います。

 

もしかしたら10年よりも20年継続した新しい世界があるかもしれないので...

 

この年になって自分の長所なんてどこで発表するわけではないですが、

この「細長く続ける力」なのかもしれません。

 

 

いつも、どこかで見てくれている誰かさん。ありがとう。

僕はなんとか今も元気にやっています。

 

あなたの10年前の今は何をしていましたか?

背景を読む

これから起こること

 

目の前で起こっていること

 

過去に起こったこと

 

それぞれには異なった背景がある。

 

結果ばかりが着目されがちだが、実はその背景と過程が本質だったりする。

 

背景と過程はあまり表に出てこない。

 

最近、そこを想像することの大切さを感じている。

 

背景を読む。

 

結果に応答するのではなく、その背景を分析し行動する。

 

それは物事に「問い」を持つことと同義かもしれない。

 

同じように見えているものも、実は見る人によって捉え方が変わってくる。

 

様々な歴史を紐解いていくときにもこの思考は有効だと感じている。

 

デジタルとアナログの間を行き来する混沌とした現代の中で、

 

本質を見抜く力が試されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コミュ力

コミュ力ってなんだろうか。

 

話す力?

一方的に話すことができる人はコミュ力が高い?

 

聞く力?

話を聞くだけできる人はコミュ力高い?

 

反応すること?

なんだか近い気がする。

 

反応することは、話すこと?表情や会釈は反応になる?

 

・・・

 

コミュ力は1人では計れない。

 

2人以上いてコミュ力はわかる。

 

つまり話す側も、聞く側もコミュ力を構成している。

 

コミュニケーションが下手というのは

その人自身が話すことが下手とも言えるし

その人の話を聞くひとが下手だとも言える

 

 

そのどちらもができて、ようやくコミュ力の高い人になれるとするならば

そんな人、実は世の中少ない気がする

しかも、その状況で役割を変えれる力もないと、そんなことできない。

 

英語(その他外国語)でコミュニケーションが取れる力というのも

似たような考えかもしれない。

 

「現代ではコミュ力が大事です」とか

「最近の若い人はコミュ力がない」とかよく耳にするけど

考えれば考えるほど何だか違和感を覚えたので記しておく。

 

日本語って難しい。。。

 

 

 

 

 

 

 

木を知る

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現在携わっているプロジェクトで使用する木材の伐採現場見学

ぬかるんだ山道の中戦車のようなクローラーに乗車し、急斜面を駆け上がる。

 

普段何気なく図面上に書いている105角の木材ができるまでには50年以上の年月がかかっており、大径木に至っては100年以上も材料として使えるまでに時間がかかるそうだ。

 

山仕事に携わる人々の思いを少しでも伝えることができる建築になればと願う。

 

 

 

外国から見た日本の建築

工芸的であること

 

ものと手が繋がってできた建築

 

大工→建築家という発展のしかた⇄西洋はビルダーとアーキテクトという成り立ち

 

歴史家の視点はいつも新鮮でハッとさせられて、元気をもらえる。

 

ちょうど10年ぶりに再会して、ちゃんとお話しが聞けたのも運命的なタイミングなのかもしれない。

 

いつもこの人は節目節目に僕の目の前に現れる。

 

そしてそっと背中を押してくれる。

 

 

本当に感謝しかない。

 

 

 

2021

気付くともう33歳になっていた。

 

このブログを初めて早10年が経過しようとしている

 

この2〜3年あっという間に時間が過ぎている。

 

充実しているのか、何もできていないのか。

 

空白があることで、それを満たす何かは生まれてくる。

 

あまりにもここ最近は空白がなかった気がしている。

 

常に何かでいっぱいに満たされ、

 

他が入る余地がない生活。

 

温度のある暮らしを今日からでも始めよう。

 

もっと自分に正直で誠実な暮らしを。