アニミニズム

石山修武 「生きのびるための建築」 読了


建築は芸術か、工学かという議論はよくあるが、


この本の捕らえ方は後者を含めて、前者としての建築を書いていると思う。


建築が完全に芸術にならないとするならば、


経済(施主)の所在によるものなのではないだろうか。


もちろん、施主が設計者自身であればそれはアートとして認識できるだろうが、


たいていの場合はそうはいかない。


その、「たいてい」を建築ではないと否定するのであれば話は別の次元へと変わってくるが


この世に無限に時間と資産があって、


いつまででもいいから、好きなように創っていいといわれれば、


そこに形は何も残らないのではないかと思う。


制約がないということはそういうことなのではないだろうか。


そうやって捉えなおすと、建築と芸術の閾値は曖昧に見えて実は明快なのかもしれない。


輪郭(ルール)があること。


それが、建築としての建築として認識できるように思う。


だから、歴史上のことを形だけで判断することはかなり難しいし、


断片的で時系列的にだけ歴史を知ってもあまり意味を感じることができない。


その時代にしかなかった制約のもとでつくっているから遠い昔の出来事でも


現在の僕たちが知ることができるくらいに語り継がれている。


背景まで含めて物事を判断できるようにならなくてはいけない。


それは時代についても言えることだし、国ごとによっても言えると思う。


上海に来る前は、なんで中国の建築はああなるのか?と不思議でしょうがなかった。


背景まで含めたフィルターで中国の現状を見ると


それが中国という一つの国の中の制約で現在の風景ができていることが少し納得できる。


だから、日本における建築と中国における建築を同じ時代のものとして、


同じ土俵で見ることはすこしナンセンスに思えてしまう。


直感的な判断もときには重要だけど


「背景も含めて物事を判断すること」


を忘れてはいけない。


そして、そこまで含めて本当に自分がいいと思えるものを探したい。